判子は、実に様々な場面で活躍しています。契約書や会社決裁などの重要な場面から、宅配便の受取り時などに押印する軽いものまで、程度はあっても、ほぼ毎日判子に触れる機会があるのではないでしょうか。日本人にとっては、慣習として判子が無いと成り立たないといっても過言ではありません。
ところで、本来、契約書はサインのみでも良いとされ、現に海外では判子は無いため、確認手段としてサインを用いています。日本では、さらに判子を押すことにより、契約当事者が内容を確認し、着実な契約履行の誓約について、ダメ押しをするかのようです。
先日の新聞に判子に関する記事がありましたが、公の文書に判子を使用するようになったのは、大化の改新後、中国の制度を取り入れる形で始まったそうです。奈良時代には、公文書印の偽造は流刑、天皇印の偽造は絞首刑など、判子の重みを傷つける行為は刑罰が科せられるようになったということです。
判子の重みという点では、現代でも変わらないかもしれません。判子一つで人生が変わり、損害が出てしまいます。夫の経営会社が借り入れを行う際、言われるがまま、妻が連帯保証人欄に判子を押してしまったがために、離婚後10年が経過したとしても、妻に対して金融機関から返済の督促が来てしまい(会社が破産し、その夫も自己破産)、自己破産に追い詰められるというような事例。
警察官・検察官の取調調書に対し、事実と異なる(えん罪)にも拘わらず、取調べがきついために判子を押してしまい、裁判にて自供の証拠書類として扱われてしまう事例。
大手企業でも、土地建物の売買契約にて、売り主側が偽造したものと見抜けず、実印、印鑑証明、身分証明書類を確認できたとし、売り主を間違いなく本人であると断定し、契約した上で、売買代金を支払ってしまい、結果詐欺事件として大きな損失を被ってしまった事例。
いずれにせよ、判子を押印するということは、現代においても重いことは間違いありません。後になって証拠書類となってしまうため、軽い気持ちで押せるものではないということです。予防接種の説明書類でも、宅配便でも同様だと思います。押印(サインの場合も)する際の慎重さが当然に求められる時代です。
さて、前出の記事によると、コロナウィルスに伴い緊急事態宣言が発せられ、テレワークによる勤務が叫ばれている中で、官庁・企業によっては、決裁書類に判子を押さなければ仕事が進まないケースもあるということです。 明治時代には、西欧化に伴い判子の文化を見直し、サインのみで良いとする案も検討されたそうですが、結論として判子を押す文化は約100年間変わらず、今に至ります。結果として、テレワーク等に対する枷(かせ)となってしまいましたが、コロナ禍により判子文化が見直され、電子決済等の効率化が進むとしたら、時代の要請なのかもしれません。もちろん、判子の文化も残って欲しいし、私は好きですけどね。